辺境×日記

ごく個人的に思う事を書く

思考実験:「この文章を書いているのは誰か?」

そもそも自分がこの文章を書いているのか?

さきほどの自分のブログ記事を書きながら、その状況をメタに観察してちょっと驚いたことがある。

www.bearcub-blog.com

この記事は確かに僕がキーボードをパチパチ打って書いたのは確かだ。

傍から見れば、明らかに僕があの文章を書いたと普通は思うだろう。

もちろんこの文章もだ。

でもそれって本当??

普通、「文章」というと、

「筆者が」「筆者自身の意思で」「書きたい事・書くべきことを」「書く」

と思うだろう。

 

でも、本当にそうか?

僕は最初から冒頭のような記事を書こうと思ったのか?

そうではない。

「筆者」はたちまち消滅する

先の記事、最初は「最近自分のブログの優先度が下がってるよね」という感情だけがあった。

そして、それを書こうと思い、3行ぐらいで書いた。

「筆者」がいたのはそこまでだったと記憶している。

 

なぜならその直後には「プレビューモード」にして、「読者視点に切り替えて」推敲指示を自分に対して発し始めたからだ。

 

その直後から、僕の中の「筆者」は消滅し、「編集担当者」と「入力係」の二役に分裂した。

 

その「編集担当者」は、「ブログ」というフォーマットに適した段落分け、取ってつけたような論理展開、文章区切りを事細かに指摘する。

 

頻繁にプレビューモードと編集モードを切り替え切り替え、僕の指は「編集担当者」の指示通りに入力する。

 

文字数が1000文字を越えてきた?

そろそろいいだろう、不要な改行を適切に縮減しよう。

こうやってなんとなく「ブログ1記事」が形成されていく。

 

「筆者」は最初のアイデアを残して、いつの間にか消滅しているのだ。

文章は執筆されているのではない、発生しているのだ

これはなんだろう。

少なくとも素朴にイメージする「執筆」ではない。

どちらかというと文章が「発生している」と表現するほうが適切ではないだろうか。

 

「筆者」と思っていた自分はそもそもいないのでは?

「自分が書いた文章」というのは、キーボードで入力したという意味においては正しいが、それ以上の意味で「自分が書いた」と言っていいものだろうか。

 

世の中の文章の多くがこのような過程で「発生して」いるとすれば、自分たちが文章を通じて行っている「コミュニケーション」とは何なのか?

 

実は、「ブログ」とか「ツイッター」とか「匿名/実名」とか、そういうフォーマットとか構造のようなものの狭間からこれらの文章群は染み出しているだけなのではないか?

 

そして、世の中は確実に文章によって動いてきた。

誰もがブログ、SNSで文章を書けるようになった時代だからこそ、こうした根本的なことに答えられる哲学に出会えたらいいと思う。