辺境×日記

ごく個人的に思う事を書く

スポーツマン=サムライという弱虫根性

目次

また醜い記事を読んでしまった。

headlines.yahoo.co.jp

スポーツマンを「侍」にしたがる世の中

この10年ほどだろうか、スポーツの代表選手を「侍」に喩えることが多い。

「侍ジャパン」、「サムライブルー」とか。

みんなこれ本当にかっこいいと思うのだろうか?

僕は正直この傾向は非常にかっこわるいとずっと思っている。

 

ここでいう侍のイメージは単に「強い戦闘能力を持つ者」ではない。

むしろ「主君に忠誠を尽くす従順な戦士」だ。

そしてその「主君」は現代においては本当のお殿様ではなく、

「国家(彼らは国の代表だから)」であり、

「社会全体(彼らは我々の代表だから)」である。

あるいは、「世間の空気(彼らは我々の崇高な精神の顕現だから)」である。

 

「彼らはすごい能力だけど、何かに従順であってほしい、謙虚であってほしい、できれば我々に尽くす存在であってほしい」

「強さ」を「強さ」としてそのまま尊敬できない弱虫根性とあえて言おう。

「モラルのものさし」を持ち出すな

このスポーツ選手(堀江君)を擁護するコメントが非常に多いのだが、それでも非常に気持ち悪いのが、

「私は気にならないけどな」

「これぐらいは大丈夫な範囲なんじゃない」

という奴ら。

 

なんであなたが、このスポーツ選手の感性を測定できるものさしを持っていると思うかな?

髪型に関して「何か守るべきルール」があって、なんで自分がそれを知っていると思うかな?

 

仮にこの堀江君がこの髪型のみならず、さらに髪を金髪に染めたとしよう。

そうしたらあなたはレッドカードを掲げて「それはダメ!」などと線引きをするつもりなのか?

 

「かっこいい/かっこわるい」という主観に基づくコメントなら、あなたにも言う権利がある。

でも、「何か守るべき権威が我々の上にあり、それに基づけばあなたはアウト」という「支配者の代弁者」の構造を持ち出すのは弱虫根性である。

「個性」は「全体」を背景にする

冒頭のニュース記事タイトルにもある「個性」。

これもくせ者である。

「個性」は常に背景として「全体性」を仮定する。

「全体として守るものがあり、そこから逸脱する「個性」も重視すべきでは」

というトーンである。

だから、堀江君を擁護する者も

「個性だからいいんじゃない?」

という「許可目線」になるのだ。こうした擁護者は実は未だに「何か我々を縛るもの」を想定している。

この擁護者は別の件では

「個性と言うにはあまりにも、、、」

という方式で他人を縛る。

彼がそう言い出したときにやっと明らかになるのだ。この擁護者も結局は「大きな権威」には従わねばならないと考えていることが。

自由を謳歌している他人を許せない?

ニュース記事での堀江君のコメント

5月に京都であった2019年ワールドカップ(W杯)日本大会の組み合わせ抽選会に出席した際は、代理人を通じ髪形を戻すよう要請があり、応じていた。堀江主将は「こんなことできるのは(プロ選手の)今しかない。社会人でこれだったらダメでしょう」とも。

明らかに彼は「彼の自由」を謳歌している。

それが気にくわない?

 

この記事からは「代理人」としか書かれていないが、きっと

「サラリーマンだから無難な7−3分けにして苦虫を噛み潰したような表情で日々を生きなければ」

と思いつつ、気づいたら老人になってしまった者であろうか。

「髪型の自由」すら得ることができなかった者の発言である事は間違いない。

(ちなみに僕は「7−3分け」が従順の象徴だと単純には思っていない。真に優秀な営業マンは「この一見凡人ヘアーこそが最大の売り上げを生み出す武器である」と自信を持ってそれ選択するからだ。)

モラルのねつ造はやめろ

堀江君にこのようなばからしい要請をした者の動機は明らかに弱者のルサンチマンである。

 

彼らは思う。

なんか悔しい。うらやましい。好き放題しやがって。自分だって。。。という心の声をぐっとこらえ、叫ぶ、

「モラルは我々の側にある!いかなる強者もそのモラルには従わねばならない!」

そして彼らはモラルをねつ造する。

 

記事にある「ワールドラグビー憲章に謳われた品位」がそのねつ造の極地である。

もし、そのような世界基準の「品位」があるとすれば、オールブラックスの選手の髪型にもいちいちケチをつけて回ると言うのか。

ほら、この彼なんかまず糾弾するに値するんじゃない?

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いつまでもダンゴムシ精神でいいのか?

僕は日本に住んだことしかないので他国は知らないけど、日本の社会は常に

「我々の上に何か強い権威がないと安心できない」

という社会だ。

 

江戸時代にはそれが地域のお殿様であり、明治以降は天皇と国家であった。

1945年の天皇の人間宣言以降、それが「社会」や「空気」に変わり、最近では再び国家がその役に代わろうとしている。

(欧米であればこの権威はキリスト教であり、教会なのだろうか?)

 

まるで石の下に隠れずにはいられないダンゴムシのような精神だ。

 「社会人にふさわしい」を打破する

堀江君のような頂点を極めた者でさえ「社会人でこれだったらダメでしょう」と言うほど、このダンゴムシ精神は我々をむしばんでいる。

 

「社会人のルール」という決定的なものが存在するからダメなのではない。

 

例えば「ヒゲは社会人としてふさわしくない」と主張する人がいる。

勘違いも甚だしい。

そうではなく、その人は「ヒゲを生やさないほうが自分の仕事にはプラスになる」というのが実情で、「社会人のルール」は彼の後付けのねつ造である。

実際ヒゲを生やす社会人は相当数いる。

 

では、髪にパーマをあてるのは?髪を染めるのは?薄い色なら?極端な金髪なら?

これらは「社会人のルール」で決まるのではない。

そうでなくて「その社会人の置かれた状況での彼のベストな戦略」で決まるのだ。

そして主体的に自分の容姿を選ぶ。その責任ももちろん自分で受け入れる。

 

弱者はその主体性に耐えられない。

そこで彼らが持ち出すのが「社会のルール」である。

「僕たちは社会のルールに従っている!正しい!主流派!普通!安心!」

これがまさにダンゴムシ精神の発露である。

 

 くそ食らえである。

 

我々の「上」にこれ以上ルールや権利を置く必要はないし、その下に潜り込む必要もない。

我々の人生は我々が自ら選ぶ。

ルールは我々が(さらに上の権威を使わずに)共に話し合って決める。

それでいいじゃないか。